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2016年7月

2016年7月20日 (水)

記憶の記録-12-

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中川繁夫の著作/物語と評論のページです 

2016年のいま、振り返ってみると、1969年1月に起きた東京大学安田講堂の攻防戦という一連の光景が、ぼくの象徴的な関心事であったことが、いまあらためてよみがえってきます。闘いすんで、とタイトルされた一枚の写真を記録集のなかに見つけて、コピーしたのをここに掲載していますが、これは瓦礫が残された風景。この直後にぼくは東京住まいとなって、職場が本郷の東京大学の向いだったから、この光景の前に立って、現場を見ていた記憶があります。何事にも遅れてきた青年が、終わったあとの光景に立ち会ったという記憶は、全く自慢話ではなくて、劣等生の呻きみたいなものです。このあと10年後の1979年の夏に、ぼくは釜ヶ崎の三角公園で青空写真展を行うことになりますが、そのときには、あれから10年、という心の中でのつぶやきが、なんども遡上していたのでした。まだ焦臭い匂いが残っていた安田講堂前に立ったとき、京都の西陣の奥隅に子供の日々を過ごした格好悪さが交錯していました。文学青年で、芥川賞が最高の栄誉だと思っていたぼくは、その出発点に立ったことへの恍惚と不安が交錯していたと思うんです。

こうして語っていくと、なんとも今なら格好良く書いてしまいそうな気がしますが、それは間違いで、ここまで生きてきた証を、ここに残しているわけで、美化しているわけではなくて、恥をさらしている、と思う。生きてきたなかでの出来事にかこつけて、自分の記録を残しておこうという伝記。だれがするまでもなく、じぶんで伝記を残していこうと、これはかなり現代的な方法論だと考えていて、自己史の形成、なんて枠組みです。1969年1月、ぼくは22歳になっていましたね。三年遅れで大学生になれたぼくの東京行きは、生活の糧を得ながら目標に向かえるという希望もありました。でも、この目論みも、あえなく潰え去ってしまうのです。自分の立ち位置から、東京大学も芥川賞も、とんでもなく遠いところにある筈なのにとんでもない勘違いをしていたものでした。でも、でも、生きることの最底辺から、声をあげるという行動原理は、きっとここ、東京での体験があったからだと思っていて、ここに書き上げ残しているわけです。

中川繁夫写真<はな>と<小説>集です

2016年7月10日 (日)

記憶の記録-11-

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中川繁夫のホームページです

書斎の机の引き出しに忘れられていた代物をインスタグラムで撮影しました。母の形見、バリカン、です。髪を刈り上げるバリカン。錆びている、母が仕事で使っていたモノです。理髪師だった母親、大正11年生まれだったと思うが生きてれば94才とあります。平成元年の四月にクモ膜下出血で仕事中に倒れ、意識が戻らないまま死んだ。60歳代後半です。ぼくはもうこの母の歳を越えています。母への想いでは、親孝行なんてしなかった、裏切ってばかりいたんじゃないか、と思えて仕方ない。このバリカンからの連想、母の仕事場は立命館大学理髪部、そこからの連想です。まだ小学生の低学年だったころ、広小路の立命館大学へ遊びに行ったものです。研心館地下の一角に理髪部があって、そこは母の職場であったけれど、ぼくの遊び場でもあったのです。最近、立命館大学の細井先生と話をする機会があって、当時の様子をCGに作成されて、見る機会があった。記憶の中の立命館がよみがえってきて、当時のことを話したところです。その後、二十歳を過ぎて立命館大学に入学します。紆余曲折七年かけて卒業証書をもらいましたが、通っていたのは夜間部で、卒業のときには長女が三歳くらいになっていた。文学にとりつかれていて、小説家になりたいと思っていて、文章を書く練習を重ねていたわけですが、ついにはモノにならなくて、いまに至っているわけです。

友達と一緒に特注の原稿用紙をつくったものです。縦25字の原稿用紙千枚を手にして、文章を書いていました。どんな文章を書いていたんだろうか、残されていないので記憶を辿るしかないのですが、小説、いや小説の練習ですね。でも、短編で立命館の学友会公認の文芸クラブだったかに入って、機関誌に小説を載せた記憶があります。原稿用紙に書いたモノを鉄筆をつかってガリ版刷りした記憶もあります。反鎮魂という同人誌に「凍える炎」なんてタイトルの小説をのせたけれど、まだ学生身分のときだった。ちょっとした書き手やったらしい。同人仲間が褒めてくれていたから。でも、それは、なによりテーマが結実しなかったし、文体は真似してそれらしくなったけれど、自分では納得できなかった。生活のこともあって、もう文学は続けられないとの気持ちになって、馬鹿にしていた写真を撮りだすようになっていたのは、もう27歳のときだろうか。この文章になにが抜けているかといえば、当時の政治運動の背景が記述されていません。この記憶の記録を構成する底流に、やっぱり政治運動の潮流があって、それに言及することが自己史の形成のためには、必要なのかと思う。そうですね、いま、ここに、それが必要だと認識して、書き込めるようにしていきます。

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