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2016年6月

2016年6月29日 (水)

記憶の記録-10-

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中川繁夫写真<はな>と<小説>集です

このシリーズを始めたころから気になっていた原田康子さんの小説「挽歌」のこと。今朝、どうしても彼女のことを記録しておきたいと思って、このイメージをデーターのなかに探していたけれど、探し当てるまでに小一時間を費やしてしまいました。そのあいだブラームスの「レクイエム」が流れてきていて、心を落ち着かせようとしながら、ふるえる心をどうしようもないまま、いま、ここに、います。「挽歌」は挽き歌、何を挽くのか、ぼくのイメージは棺を引く、鎮魂の歌、レクイエムのように思えてならない。原田康子という名前をいつごろどこで知ったのかわからないのですが、古書店の入り口にある本の山のなかに、その本があって買い求めたのだと思います。たぶん三条河原町の京阪書房ではなかったかと思う。薄っぺらな表紙の単行本、読みました。なんだか空に抜ける青春の疼きみたいな感覚を、なんて名前の喫茶店だったか、少女ってゆうか女子学生の、なんだろう、思い出せない、内容が思い出せない、でも、読んで、なんというか、救われるような、挽歌、レクイエムだったように思えます。もう大人になっていた自分です。二十の後半?、三十の前半?、そのころの記憶がよみがえってきます。その本は手元にはありません。ともに悩んだひとに読ませてあげてそのままになったように思う。最近の彼女、Mの顔が、思い浮かんできます。そうしてここにコピーした記事を見つけたとき、どうしようもない「やるせなさ」のような気分になってしまった。後戻りできない人生の、とっても大切な部分が、この挽歌と交じりあっている気分。ああ、思い出せない、思い出せない、喫茶店の名前、それは青春小説だったのか。いま読んだら、同じような気持ちになれるだろうか、淡い記憶として置いておくのがいいのかも知れない。

喫茶店の名前はダフネといったんじゃなかったかな。原田康子さんの写真が撮られたのが昭和31年11月とあります。ぼくは10才、小学生の3年生ころでしょうか。ベストセラーになった小説か、新人で賞をもらったのかなぁ、その本を買ったとき古本で100円もしたかどうか。喫茶店でいえば荒神口に「シアンクレール」という名のジャズ喫茶がありました。岡崎に「シンフォニー」というクラシック喫茶がありました。時間をもてあましていたわけではないと思うが、いまふりかえると、いまの時間感覚の10倍ほども遅々としていたように感じられます。年取って過去を思うことは、感情が伴いますね。テレビのうたばんなんか見ていても、ノスタルジーを感じさせるじゃないですか。過去の記憶を多く持つということは、若い人、過去が少ないひとには、うっとおしい感でしょうね。今を生きてくれ!なんて言葉がかえってきそうだから、なんとも恐縮です。ええ、そろそろ引退、幕引き、そんな時節がやってきてる、とも思うこのごろです。

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2016年6月27日 (月)

いろいろいろ-1-

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いろいろあるなぁ、と思う。

日本を紹介する内容のものだというのです。

色事が多いように思いますが。


2016年6月17日 (金)

記憶の記録-9-

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この前には太宰治の桜桃忌をキーワードに記事を書いたのですね。その後、別の書籍からコピーしてここに載せる写真をみつけて、フェースブックには写真だけを添付したところです。やっぱり、気になる、いま、2016年6月の17日ですけど、昨日には梅雨の雨、今日は降ってないけど乳白の空です。バッハのカンタータ、女性のソプラノでしょうか、高校のときに練習してたような歌いまわしの曲が、聞こえています。玉川上水といえば東京のどの辺なのか、井の頭公園があるあたりなのでしょうか、あいまいなイメージしかないんですが、写真を見ると、死体にゴザがかけてあって足、膝からしたが写っているじゃないですか。太宰なのか、たぶん、太宰の死体があがって、遠巻きに見物されている。誰が撮ったのか新聞記者さん、新聞社のカメラマン、毎日系の出版物でみつけたから、毎日新聞に載ったのだろうか。バックナンバーを探ることまではしませんが、ぼくには数日前に初めてお目にかかったわけです。悲惨、虚構の彷徨のなかの道化の華だったか、海へ投身心中して女が死んで男が生き残って病院、その男の名前は人間失格にでてくる奴、大庭葉蔵。死に損ないの男が、海ではなくて川で死す、なんて、大庭が太宰と置き換えていますけど。いや、あらためて、それらの日々の太宰の心境を思うのです。死にゆく前の心境を、です。男にとって女は聖母、ころげゆく心を支える聖母か、愛人と入水とありますが。この愛人は誰、どの程度の関係なのか、いや、光景を想像するだけで滑稽きわまりない、悲しみの極として、物言わぬ身体となる。太宰を共有するということは、死の淵を共有することで、太宰が死んだから、死ぬのをやめようと思う、その支えとしての太宰文学であるように、あらためて思う。

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2016年6月 8日 (水)

記憶の記録-8-

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桜桃忌なんてフレーズが浮かんできて、たしか6月の今頃だったよなと思って、検索してみたら6月13日、遺体発見が19日、とありました。太宰治の死、という記事があったのでそれを写真コピーしたものがあるので、それを今日の写真としています。昭和23年6月ですか、39才で死んだとあります。39才という年齢は、ぼくにもありましたけど、それから30年も過ぎてしまって、たぶん倍近くも生きるんやろな、と思うわけです。太宰の小説に触れるのは、高校を卒業してからだと思えます。親友長澤氏の影響が大きかったと思いますが、読み出してやめられなかった、太宰中毒症に罹ってしまったんだと思います。多くの人を魅了させる彼の文体は、人生の同伴者なのかも知れないです。いまもって、なにかのときに、太宰の言葉が、ふっと思い起こされてきて、心揺さぶられてしまいます。まるで音楽のようです。そんなやわらかい文章を書きたいとおもっているけど、どこかどうちがうのか、まったくだめですね。ぼくが小説書きにこだわるのは、やはりその底流には太宰があるように思えます。彼の時代だからエロスなことは論外だったと思えますが、今なら、エロスも書いていたのではないか。いやはや、女との情死なんて、エロスそのものではないか、と思えてしまいます。最後の文章が「桜桃」だったか、いやグッドバイですかね。桜桃、さくらんぼ、食べるんですね、子供より親が大事と思いたい、ですかね、ワンフレーズがよみがえってきて、自分の人生と照らし合わせてしまいます。斜陽を読んだときはそれほどではなかったけれど、人間失格には参ってしまいました。なんていえばいいのか、奈落の底、地獄を見る、みたいな感覚に落し込まれてしまった記憶ですね。これって、ぼくは二十歳の時でしたか。

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2016年6月 5日 (日)

記憶の記録-7-

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記憶の記録-5-で内灘の写真を載せて、触発されて、図書館で戦後史の本のなかに探してみたら、掲載のページがあったのでiPhoneで複写したので、ここに載せます。1953年、昭和28年とありますから、ぼくは7歳。記憶といってもこれの記憶なんてありません。そのまえ、もう少し幼児のころには、38どせん、38度線、と遊びの中でさかんに言ってた記憶があるので、これは朝鮮戦争の停戦ラインのことですね。内灘も含め、後付けの知識を得た結果としての記憶なので、なんともこころもとないですが、内灘ということは、ぼくの内面に、18歳ころから大きくひろがってきたように思えます。もちろん、ぼくが、そうゆう政治的なことへの興味を抱くことになる、という生活環境を含めたまわりの環境、学校教育では教えらていないぼく自身の生成そのものを、解き明かしていかないといけないのかもしれません。内灘闘争のことは、講和後の反基地闘争の原点みたいな、滑川の米騒動をうけつぐ民衆の謀反、反乱、いやはや浄土真宗の門徒による信長への抵抗、いろいろと言葉のうえで、当時には語っていたように思えます。でも、そうじゃない、内灘はデートの場所でした。寒い日、北鉄金沢からの終点が内灘で、砂丘を越えて見える日本海。弾薬庫の跡が空洞になっていて、その中へ入っていった。今の若者ならば、そこで二人きりだから、抱き合ってしまうのかも知れないが、そういう時代ではなかったのか、ぼくがおぼこかったのか、そうゆうことはなかった。冬は内灘、夏は羽咋の千里浜、抱き合うこともなかった清純そのものでした。北朝鮮に向き合う拠点としての内灘。在日米軍の接収。現代史の記憶の痕跡は、ぼくの青春の痕跡なのかも知れないと思うのです。まだまだ引きずります。写真のテーマを見つけていくときのバックヤードともなっていくように思えます。

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2016年6月 2日 (木)

記憶の記録-6-

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堀辰雄の文学に触れたのは確か高校二年の頃ではなかったかと思います。高校二年生といえば1963年でしょうか、たぶん、偶然だったと思えます。「風立ちぬ」うすっぺらい新潮社の文庫本だったと思います。それはぼくの資質の中に、堀の感性に感動する糸があったからだと思うが、それから数年は、堀辰雄のファンだったと思えます。まだ、小説を書こうと思う前、詩を書こうと思っていたころ。具体的には「そなちね」という詩集を編んでいたころかも知れない。堀の小説と、なにかの文のなかで、ヨーロッパの高踏派詩人たちの詩集を読んだように思います。アポリネール、リルケ、コクトオ、・・・・、それらの詩人たちの詩を読み、日本の詩人たちへと導かれ、小説へと入っていったように思えます。小説を書こうと思ったのは、高校三年生の秋だったかと思いますが、最初は祇王寺の祇王を主人公にした物語り、だったと思います。堀辰雄、浄瑠璃寺の春、これはエッセイですが、そこを訪れたのは数年前のことです。馬酔木の花が咲いた浄瑠璃寺の文章の記憶があったこのお寺、その時ですね、堀辰雄がよみがえってきました。自分の文学遍歴のなかで、現代に目覚めさせられたのは「されどわれらが日々」ですが、その発端となる堀辰雄文学には、大きく感動を受けたものです。節子という名前が「風立ちぬ」の主人公女性ですが、たまたまの奇遇なのか「されどわれらが日々」の主人公女性も節子、そうして別稿で触れるかも知れぬ原田節子、三橋節子、恋した相手が節子。そうですね、節子って名前は、よくあった名前なんですね。

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