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2016年6月 5日 (日)

記憶の記録-7-

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中川繁夫のホームページです

記憶の記録-5-で内灘の写真を載せて、触発されて、図書館で戦後史の本のなかに探してみたら、掲載のページがあったのでiPhoneで複写したので、ここに載せます。1953年、昭和28年とありますから、ぼくは7歳。記憶といってもこれの記憶なんてありません。そのまえ、もう少し幼児のころには、38どせん、38度線、と遊びの中でさかんに言ってた記憶があるので、これは朝鮮戦争の停戦ラインのことですね。内灘も含め、後付けの知識を得た結果としての記憶なので、なんともこころもとないですが、内灘ということは、ぼくの内面に、18歳ころから大きくひろがってきたように思えます。もちろん、ぼくが、そうゆう政治的なことへの興味を抱くことになる、という生活環境を含めたまわりの環境、学校教育では教えらていないぼく自身の生成そのものを、解き明かしていかないといけないのかもしれません。内灘闘争のことは、講和後の反基地闘争の原点みたいな、滑川の米騒動をうけつぐ民衆の謀反、反乱、いやはや浄土真宗の門徒による信長への抵抗、いろいろと言葉のうえで、当時には語っていたように思えます。でも、そうじゃない、内灘はデートの場所でした。寒い日、北鉄金沢からの終点が内灘で、砂丘を越えて見える日本海。弾薬庫の跡が空洞になっていて、その中へ入っていった。今の若者ならば、そこで二人きりだから、抱き合ってしまうのかも知れないが、そういう時代ではなかったのか、ぼくがおぼこかったのか、そうゆうことはなかった。冬は内灘、夏は羽咋の千里浜、抱き合うこともなかった清純そのものでした。北朝鮮に向き合う拠点としての内灘。在日米軍の接収。現代史の記憶の痕跡は、ぼくの青春の痕跡なのかも知れないと思うのです。まだまだ引きずります。写真のテーマを見つけていくときのバックヤードともなっていくように思えます。

中川繁夫写真<はな>と<小説>集です

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