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2016年5月

2016年5月29日 (日)

記憶の記録-5-

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中川繁夫のホームページです

内灘1953と題された写真は、東松照明さんが撮られた一枚です。内灘で起こった試射場反対闘争関連の写真は、ついにこれしか見たことがないから、おそらく写真がほとんど撮られていなかったのではないかと思われます。ぼくが内灘にこだわるのは、18歳でしたか高校を卒業したころです。民衆の反対闘争史を調べていたなかで、石川県の内灘で反対のために地元の住人が闘争をおこなった、とありました。そのあとには立川のことです砂川基地闘争があったと書いてあって、デモしてるところの写真なども目にしました。日本現代史においての住民の基地反対闘争の草分けだったことがわかってきました。実際には内灘へ何度もいきました。弾薬庫の跡、蒲鉾形のコンクリートの塊がいくつかありまいた。小説を書こうと思いました。登場人物は、この内灘出身という設定でした。ニコンのカメラを買って、家族以外に撮った最初の風景が内灘でした。1980年に創刊した映像情報の表紙に、内灘の写真を使いました。1982年の正月に内灘を写真に撮ろうとして赴くとすでに弾薬庫のコンクリート塊は消滅していました。すでに東松照明さんの内灘、ここに掲載させていただいた写真の存在を知っていたように思います。内灘へ赴いて落胆のなかで京都へ帰ってきたそのとき、東松照明さんが電話をかけてこられて、午後九時に六曜社であうことになりました。奇遇の重なり、なにかに惹かれるように、その砂丘を訪れた日々のことが思い起こされてきます。それから半世紀の時間が過ぎてしまいました。

2016年5月27日 (金)

記憶の記録-4-

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中川繁夫のホームページです

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1968年4月に大学へ入学できたのは、高校卒業してから三年が過ぎていて四年目でした。同級生はすでに四回生になっていたし高校の後輩だった人が先輩になるということが起こっていました。高校卒業して十字屋楽器店に二年間在籍し、それから一年の浪人生活を経た結果、立命館大学の文学部人文学科に入学したのです。早稲田と同志社も受けましたが不合格。高校の時もそれからも受験勉強なんてしてなかったのだから、仕方がないと思っていた。入学と同時くらいだったか秋ぐらいだったかに学校の中川会館がバリケード封鎖されるという事態に遭遇した。ぼくの心情は、かって共産党系だったのが三派の方へと傾いていて、社会主義青年同盟とかあたりの思想に近かったように思っていた。具体的な内容の差異はすっかり忘れてしまいましたが、そんなに急進過激派ではなかった。でも心情三派と言われた部類で、野次馬、取り巻きの一人にすぎなかった。クラスの闘争委員会なるものが立ち上がったと聞いたが、具体的にヘルメットをかぶったことはない。デモへの参加も、ヘルメットをかぶらないデモでしたが、一度、セクトのデモに参加して、機動隊にサンドイッチされて、暴行みたいなことされて、身をこわばらして河原町を北上したことがよみがえってきます。この年の秋から翌年二月までの一連の京都での動きには体験していきました。でも、結局、運動の主体にはならなかったことが、終わったのちに自責の気持ちとして残ったわけで、10年後の1978年には釜ヶ崎を写真取材する決断を促せたのは、この自責の気持ちでした。

2016年5月26日 (木)

記憶の記録-3-

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中川繁夫のホームページです

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1969年10月21日という日の出来事です。国際反戦デーと銘打たれて学生や労働者が一斉行動を起こした日。大阪の扇町公園で撮られた写真を見つけたので複写させてもらいましたが、ぼくは、このときは東京住まいで、本郷にある出版社にいました。この年の春先から東京勤務にしてもらっていました。この日、ぼくはベ平連のデモ隊列に加わっていました。夜の六時だったでしょうか、明治公園に集まって、そこから水道橋までのデモ隊でした。東京でのデモ参加は、このときが初めてでした。当日は、朝から、東京都内は厳戒態勢だったのでしょうか、ぼくは神田の出版取次店へライトバンの車で配本にいきました。辻々に機動隊員が警備していて、車を止められて職務質問は受けませんでしたが、その可能性があるということで、緊張していました。夕方までには、都内は戒厳令が敷かれたかのように、静まりかえっていました。新宿ではかなりの荒れがあったことが、後々の記録に登場してきますが、ぼくの参加した隊列は、それでも最後には多くの逮捕者が出たようです。出発前には小さな紙切れが配られ、逮捕されたら黙秘して、電話番号だけ告げる、というメモでした。三千人だったかのデモ隊で、解散地点の水道橋では後列が渦巻きデモを始め、機動隊のやめるようにとのマイク音もとどろくなかで、最後に機動隊が隊列に入ってきて、ヘルメット連中を逮捕していった。ぼくは、歩道橋にあがっていて、逮捕は免れたと、いまは思っています。

2016年5月23日 (月)

記憶の記録-2-

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中川繁夫写真<はな>と<小説>集です

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なにもノスタルジーに浸っているのではなくて、いま、時代検証のなかで自分史を作ってみたいと思っているところです。ここでは二十歳前後、1965年あたりから1974年あたりまでのおよそ10年間が、ぼくの興味の対象です。というのも、この年代は、ぼくがやろうとしていたことは、文学研究であり、小説を書くことであり、文学批評をやりたいと思っていた年代でした。これまで成熟しなかったこの10年間を、文章化してこなかたのは、つまり、できなかったからです。どうしてできなかったのかといえば、成果がなかったからです。むしろ挫折していく自分を、そこに見なければいけないような酷な気持ちがあったと思うんです。でも、それからもう半世紀が経とうとしていて、すべての情報が公開される時期に来ているからと思えているのです。それと、やっぱり、自分史、自分の内面史、これらもきちっと文学という範疇でやっておかなければいけないのかと、思っているところです。今日は、三島由紀夫のイメージを掲げてみました。

2016年5月19日 (木)

記憶の記録-1-

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中川繁夫写真<はな>と<小説>集です
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書物を紐解くと記憶の像がよみがえってきます。書物のなかのイメージの相似形として、それらのイメージがよみがえるのです。よみがえってくるイメージを、言葉に置き換えていくことが、<記憶の記録>と題したここでの試みです。カテゴリーとしては<自己史の形成>とします。ええ、最初は高橋和巳さんのことです。話は尽きないですが、ぼくは彼のフアンでした。作品もさることながら、京都大学にいらして、立命館でも教えておられたことがあって、なにかしら近い存在に思えて、お会いしたことはなかったのですが、会いたいと思っていましたが、会うことはなかった。大学の友だちから、高橋の命が危ないみたい、という情報をもらうまで、彼の病のことは知らなかった。大きな講義室に少ない受講者をまえに、西欧文学の助教授だったと思う、高橋和巳の友だちだといった彼が、小さな声だったように思う、高橋が亡くなった、と言った。ぼくは、聞き逃さなかったが、質問とかもしないまま、ぼくは高橋和巳の死を知った。1970年を越えていたと思います。高橋和巳の最後の著書は「わが解体」、この本はぼくにとっての記念碑でもあって、長女の誕生日に買って、誕生記念の詩を書いた。

2016年5月15日 (日)

いろいろ-16-

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花の頃、円山公園の枝垂れ桜をバックにしての記念写真です。

着物女子が引き立つようにバックに桜を入れずに撮った写真です。

中川繁夫写真<はな>と<小説>集です

2016年5月12日 (木)

いろいろ-15-

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中川繁夫写真<はな>と<小説>集です

着物とはいっても多くは大正時代から昭和初期に書けて織られたのだと聞いた。

着物とはいっても日常のものは紺の木綿なのでしょうか。

だから柄物は晴れ着で、絹素材で、仕立てです。

ここ最近のブームを見ていると、貸し衣装、観光客、着付けまでしてもらえる。

こうして借りる金額としては五千円位でしょうか。

いずれにしても、和服女子に出会うと、目がそこへ向いてしまいます。

男のぼくの目線が、和服女子に向くというのは、本能のなせるところでしょうか。

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2016年5月 5日 (木)

いろいろ-14-

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中川繁夫写真<はな>と<小説>集です

着物を着た女子を載せていくのに言葉はいらない。

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2016年5月 2日 (月)

いろいろ-13-

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中川繁夫写真<はな>と<小説>集です

緑と風薫る五月、五月晴れ、五月と書いて「さつき」と読む。

陽気な季節ですから、心もうきうきといったところでしょうか。

写真で、着物シリーズを撮りためていたのはもう10年ほど前からです。

日本の文化の基底をつくっている情緒の表れのひとつが着物だとお思うから。

生活着としての着物もさることながら、晴れの場の装いとしての和装着物。

嫁入り道具のなか、和服一揃えを旦那の家へ、箪笥ごといれたものです。

半世紀ほどまえには、まだ、その風習があったのか、自宅にはそれがあります。

生活の様式が代わってきていますから、それはもう風化した風景かもしれない。

とはいっても、最近はブームのように、和装で街を歩く女子が増えていますね。

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